「戦艦大和の歴史」 あっと解消 本店

歴代 | 出来事 |
1933年 | 軍令部に建艦計画を検討 |
1936年 | 承認 |
1937年11月 4日 | [大和(計画名A140F5]は、広島県呉市の呉海軍工廠の第4ドック(造船船渠)で起工され、秘密裏に計画された。 |
1940年 8月 8日 | 進水「大和」と発表される。 「大和」とは「日本」そのものを象徴する意味合いも含まれており、海軍の本艦にかける期待が見て取れる(同様の名称として扶桑) |
1941年12月 7日 | 公試終了、同年12月16日就役 |
1942年 2月12日 | 連合艦隊旗艦となり、 山本五十六が大和に座乗。作戦準備と指導に当たった。 同5月29日瀬戸内柱島出航。ミッドウェー海戦に参加するも、機動部隊の潰減により交戦する事無く帰還、同6月14日柱島泊着。 |
1942年 8月17日 | ソロモン作戦支援の為柱島出航、 同8月28日トラック入港。 |
1943年 2月11日 | 連合艦隊旗艦を「武蔵」に委譲。 |
1943年 5月 8日 | トラック出航。 |
トラック島西方180海里で米潜水艦「スケート」より、攻撃を受け3番砲塔右舷に一本被雷。 | |
1944年 6月15日 | マリアナ沖海戦、同10月22日レイテ沖海戦に参加。 第二艦隊旗艦として出撃。25日サマール島沖海戦にて主砲弾を104発発射。 駆逐艦ジョンストンを副砲の射撃により撃沈。 レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により前甲板に4発の爆弾命中、損害軽微。 レイテ湾の入り口 まで来たが、第二艦隊司令栗田健男中将は反転、交戦に至らず。 |
1944年10月22日 | レイテ沖海戦では往復の航程で米軍の爆撃により前甲板に4発の爆弾命中、損害軽微。 レイテ湾の入り口 まで来たが、第二艦隊司令栗田健男中将は反転、交戦に至らず。 |
1945年 3月19日 | |
1945年 4月6日 | 沖縄に向けて出撃。 |
1945年 4月7日 | 米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の猛攻を受け、11本の魚雷、7発以上の直撃弾を被弾し沈没した。 |
1945年4月6日、沖縄に向けて出撃。 「光輝有ル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共二、其ノ栄光ヲ後昆二伝へ」る為にと神大佐の発案で唐突に実施された。 大和への沖縄特攻の命令は、4月5日、出撃の前日であった。甲板に集合した乗組員には伊藤司令から「特別攻撃」として命ぜられた。護衛艦隊(軽巡洋艦矢矧、41駆逐艦(冬月、涼月(防空駆逐艦)、17駆逐艦(磯風、浜風、雪風)、21駆逐艦(朝霜、初霜、霞)など)と共に山口県徳山湾沖より出撃。
(天一号作戦(菊水作戦))
先導した対潜掃討隊(花月、榧(カヤ)、槙(マキ))の3隻は豊後水道で呉に帰投。 菊水作戦の概要は、アメリカ軍に上陸された沖縄防衛の支援、沖縄に着後、東シナ海の北西方向から沖縄島残波岬突入、自力座礁し砲台として陸上戦を支援、乗員は陸戦隊として敵陣突入させるというものであった。 しかしアメリカ軍の制海権・制空権下を突破して沖縄に到着するのは不可能に近く、作戦の意義はまさに、一億総特攻といえる。 しかも戦争末期には日本軍の暗号はほとんど解読されており、出撃は通信諜報からも確認、豊後水道付近では米潜水艦に察知される。
4月7日14時23分に、鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点で米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)の猛攻を受ける。 11本の魚雷、7発以上の直撃弾を被弾、最後の魚雷が命中した3分後傾斜が6度から20度になり総員退鑑命令3分後大傾斜後横転し、海中で弾薬庫が大爆発(機関部が水蒸気爆発を起こしたという説もある) 船体は折れて海に沈んだ。そのときに発した火柱は、遥か鹿児島でも確認出来たという。
なお、菊水作戦時、沖縄までの片道分の燃料しか搭載していなかったとされていたが、戦後、連合艦隊参謀小林儀作海軍大佐の手記により実際には約4,000 (満載6,000)トンの重油を搭載し出撃していた事がわかった。(巡航速度試算で往復以上の航行は可能)
戦死者は伊藤整一第2艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下2,498名、生存276名。
北緯30度43分、東経128度04分、長崎県男女群島女島南方176キロ、水深345m地点、艦首は北西(方位310度)、艦尾部は東(方位90度)方向、右舷を下にした艦首部より一番副砲までの原型部分、転覆状態の三番主砲塔基部付近より艦尾までの原型をとどめた後部が約170メートルの間に、中央部の原型をとどめぬ艦中央部は一つの起伏となり艦尾艦首の70メートル南に転覆した状態で、それぞれに半分泥に埋まった状態で沈んでいる。

建造 | 呉海軍工廠 |
起工 | 1937年11月 4日 |
進水 | 1940年 8月 8日 |
就役 | 1941年12月16日 |
沈没 | 1945年 4月 7日 |
除籍 | 1945年 8月31日 |
性能諸元
基準排水量 | 65,000トン(完成時) | 満載排水量 | 72,809トン(完成時) |
全長/全幅 | 263.0m/38.9m | 乗員 | 3,332名(最終時) |
吃水 | 前部10.4m | 最大速力 | 27.46ノット |
軸馬力 | 153,553馬力(軸数4) | 航続距離 | 7,200海里/16ノット |
装甲 | 舷側:410mm、甲板:200mm、主砲防盾:600mm |
新造時 | 最終時 | |
3連装 45口径 46cm砲 | 3基 | 3基 |
3連装 60口径 15.5cm砲 | 4基 | 2基 |
40口径 12.7cm 連装高角砲 | 6基 | 12基 |
25mm 3連装機銃 | 8基 | 52基 |
25mm単装機銃 | --- | 6門 |
13mm連装機銃 | 2基 | 2基 |
歴代 | 人名 | 期間 | 備考 |
1 | 宮里秀徳(大佐) | 1941年 9月 5日〜 | 艤装委員長 |
2 | 高柳儀八(大佐) | 1941年11月 1日〜 | 初代艦長 |
3 | 松田千秋(大佐) | 1942年12月17日〜 | |
4 | 大野竹二(大佐) | 1943年 9月 7日〜 | |
5 | 森下信衛(大佐) | 1944年 1月25日〜 | |
6 | 有賀幸作(大佐) | 1944年11月25日〜 1945 4月7日〜 |
遠すめらぎの 畏くも 肇めたまいし 大大和 永久に栄ゆる 日の本の 神武の正気 今ここに こりてぞ成れる 浮きつ城 |
しこの御楯と 畏みて たおれて止まぬ 尽忠の 大和ますらお 数二千 心を磨き わざを練り 断乎と守れ 太平洋 |
ああ悠久に 伝うべき 八紘為宇の 大理想 行くてをはばむ 敵あらば 無敵の巨砲 雷と吼え 撃ちてし止まん 大和砲 |